石垣島発びっくりコラム 

たまにびっくりすることあり

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八重山の天才詩人

八重山の天才詩人

大浜信光(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。

 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。
<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>

 祖父、大浜信光(しんこう)が亡くなって、20数年が経ちました。祖父は1冊の詩集を残しました。私は祖父の詩が大好きです。たくさんの人に知って欲しいと、9年前にホームページを作ったときに「南国の天才詩人」というコーナーを作り、詩を紹介してきました。

 先日久しぶりにそのコーナーにアクセスしてみると、なんとサーバーにありませんでした。私の不注意で知らないうちに削除してしまっていたのです。

 祖父は宮良長包の教え子で、師範学校の生徒の時に「あかゆらの花」「泊り船」の歌詞を音楽の教師であった宮良長包に提供しています。また山の口 獏とも親交があったと聞きます。

 しかし残念ながら、両氏の様に祖父の詩は死後光があたることもありません。77歳にして初めての詩集を出し、生涯でたった一冊の詩集を残しただけの祖父ですから、もしかしたらそんな野望など無かったのかも知れません。

 ふるさと八重山を心行くまで詠ってみたい、、という言葉を残していたので「南国の天才詩人」を改め「八重山の天才詩人」というシリーズで、これから不定期に詩を紹介していきたいと思っています。

 どうぞおつきあいください。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>

  大浜信光、京子には、男一人、女3人の子供が居ました。3人は沖縄本島に住みましたが、石垣島に住んでいたのが次女の愛子、私の鳥好きな母親です。妻と二人暮らしだった祖父の詩には、何編か祖母のことを書いた詩があります。これがそのひとつです。

 珪藻土(けいそうど)とは、植物性プランクトンの遺体が海底や湖沼の底などに沈殿してできた堆積物(たいせきぶつ)だそうです。※珪藻土とは、さらに詳しく


八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>


祖父は詩集のあとがきで、
「離島の風物、そこに住む人々の哀歓がつぶやかれており、一人でも共鳴して頂ければ、何も云うことはない。詩集を『先島航路』とした所以も此処にある。」と書いています。

 ひとつひとつの詩に解説を付け加えるのは私の能力を超えているので、読まれた皆様それぞれの感性で感じ取って欲しいと思います。わからない単語、言葉などはネットで検索してくだされば幸いです。

  

八重山の天才詩人

                        仲嶺愛子

 私の父、大浜信光は長包先生の教え子で、師範学校時代に詩を作り、先生に作曲をしてもらったそうだ。

「大鷹小鷹」「赤ゆらの花」「夕やけ」「泊り舟」「嘆きの海」

 『宮良長包先生生誕120周年記念フォーラムの集い』に、父についての思い出を語って欲しいとの電話があった。私は生まれてこのかた、大勢の人前での話はしたことがないのを理由に断った。

 断って後から何故か空しい、あれも、これも、聞いておけばよかったとおもうことばかり。
父について何も知らない自分が、情けないと思った。私の心の中に何か残しておきたいと思った。

何をしようか、何ができるか、考えた末、崎山さんの言葉を思い出した。
「あなたのお父さんの歌では、嘆きの海が好き。いつか一緒に歌いたいね」と言ってくれた。

考えてみると、私は完全に歌えるのがない、父の歌が一つも歌えないとは情けない。
父の歌を歌おう。
思いついたら、すぐに始めるのが私の性格。早速本屋に行った。生誕120周年記念宮良長包作曲全集を2,500円で買う。

パーマ屋さんに行って、2000円取られるのも惜しいと思うこのごろだけど、ちっとも惜しいとは思わない。

 早速練習を始める。オルガンを弾きながら思い出した。
「あちら、こちらの家から長包先生の曲が流れるといいな」と言われたフォーラムの時の先生の言葉を。
そこまでいかなくても、一人でも多くの人が弾けばいいと思った。2ヶ月ほど弾いてみたが飽きない。何となく気持ちが落ち着く癒しの曲だと思った。

「赤ゆらの花」や「嘆きの海」などは歌いにくい。若い時は、歌えたでしょうが、70歳過ぎては無理だと知った。
高音が多く難しい歌だ、誰にでも歌えたらいいなと思う。
ステージで歌う歌だと、誰かが新聞に書いてあった、なるほどと思った。

 上手に歌えなくても口ずさむ程度はできた。これでいいんだと自分ながら満足している。
次回に続く

八重山の天才詩人

                                     仲嶺 愛子
 
 『大鷹小鷹』の歌が、父の詩とは知らなかった。昔は学芸会などでよく踊ったそうだ。

 『まわれやまわれ、大鷹小鷹。遊べや遊べ大鷹小鷹。天のお庭は広いな、私も天まで飛びたいな、私も天まで飛びたいな。』

『泊まり舟』も間違って歌ってるところがあった。  

『泊まり舟』は、森繁久弥がテレビ、ラジオでよく歌っていた。
森繁さんから、父は手紙をもらったそうです。私は知らないけど、桃原の郁ちゃんは手紙を直接父から見せてもらったと言って威張っていた。

 30年前の話、『赤ゆらの花』について、佐久本のおばさんが言われた。

「『赤ゆらの花』は、あなたのお父さんの失恋の歌だよ。」
桃原の叔母と二人でラブレターを届けたそうです。
「嘘だ。」と言ったら、名前まで教えてくれた。

そういえば歌詞に、「梢に遠き花よ花」。なるほどと思った。 

 いまさらどうでもいいけど、本棚を整理していると宮良長包先生顕彰記念誌『ふるさとの歌よ永遠に』が見つかった。
『赤ゆらの花』について何か書かれてないかと思い読んで見た。

『赤ゆらの花』が好きだという人は少なく、『嘆きの海』が好きだと言う人が多い。

徳山寛三さんは「先生の作曲作詞はすべて好きだが、特に次の2曲は好きだ。南国の果ての珊瑚礁に横たわる人魚、朝ぼらけには黄金色に輝き、深夜には青い月光の露に濡れる海辺のあさみの花』

石垣正二さんは「嘆きの海に魅せられ、この歌に心を奪われたことがある。この歌はトバラマの美しいメロディーが主旋律として流れ、人魚ぞ歌うみんなみのと、夢幻の境地に誘い込まれるようで、若い私の魂を揺さぶり、たまらなく好きだった。」

 最後に父の文章。

  「戦争中軍歌で塗りつぶされた時代、宮良メロディーは鳴りをひそめていましたが、地下水となって私たちの心の底を流れ、終戦と共に噴き出し、郷土の民謡と渾然一体となり、多くの人々に歌われ、親しまれています。」  完                            
                   2003年10月5日

 なお大浜信光の詳しいことは『宮良長包の世界 著 三木 健』 発行 南山舎に記されています。
南山舎 tel 0980-82-4401 http://www.jaima.net

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>




 凡人はみみずを見ても「うわっ、気持ち悪い、、、、」と目をそむけるだけだが、詩人のまなざしはちがう。祖父の詩はたくみな比喩とほのかなユーモア、そして品格があると思う。
 生きている時にもっとたくさん詩作の話を教えてもらえばよかったなあと、最近思う。
生きている時でさえ、母から「じいちゃんの詩はね、、、」と、また聞きするのみだった。

 今だったら歌詞を書いてもらって曲を作ってみたいと思う。

 詩集の中からひとつ曲をつけ、祖父の面前で聞いてもらったことがある。「同級生」という詩に曲をつけた。その頃私は感情を込めて力を込めて歌うのがいいと思っていた。

 歌い終わった私に祖父は、
「もっと力を抜いて歌ってもいいんだよ。」と言った。

その意味は今ならよくわかる。
サイモン&ガーファンクルの「スカボロフェア」を毎回ライブの最後に歌ってきて、祖父の言葉を思い出し、歌はがならなくても、そっと耳元でささやいた方がよく伝わることもあるのだ、と気づいた。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。



 凡人は蟻の行列を眺めても、♪蟻さんと蟻さんがごっつんこ♪くらいしか浮かばないのに、詩人の眼差しと表現は違う。「この褐色の葬列、、、、、、皇帝の儀式より厳しく、、」と来た。
 
 この詩はおそらく16日祭で墓参りした時に出来た詩なのだろう。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。




 
 このところ沖縄は連日雨が続いている。こんなに雨の日が続くのも珍しいのではないだろうか。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

 同級生の友人は、明日15年ぶりに石垣島へ行くと言う。家族が沖縄本島へ引っ越してきてからは、なかなか機会がなかったのだ。

 ミニバブルという石垣島。すっかり変わった郊外の様子に彼は何を思うだろう。

 明治35年生まれの祖父が、昭和39年に書いた詩を紹介します。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

 今日は旧正月。

 漁業の町、糸満と、うるま市の一部の町では、今も旧正月が祝われている。

 旧正月に寄せて、、、、。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>




 

今日はあの世のお正月と言われる旧の十六日祭りである。
親族が墓に集い、宴を開く。

 この詩が八重山毎日新聞に掲載された小学生の時、母が、
「あんたのこと書いてるよ。」と言った。

 詩集が発行されて改めて読み返したとき、
その少年は私ではなく、15歳で亡くなった最愛の長男のことだと知る。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。


八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。

八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>
  ※詩集は昭和54年に千部自費出版され現在入手出来ません。


八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>




※携帯でも読めるようにと文字による詩も掲載しました。↓

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大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>


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秋/八重山の天才詩人

大浜信光(しんこう)(1902~1983)は石垣市大川に生まれた。 生涯詩集は出さないと言っていた大浜信光が周囲の再三の勧めによって77歳にして初めて出した『先島航路』は沖縄近代文学史上の大きな収穫として反響を呼んだ。<県立八重山図書館館長:砂川哲雄氏掲載記事より引用>


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